広瀬川文学散歩 第6回財部鳥子と「永遠に」

市街地の中心を流れる広瀬川のほとりは昔とは見違えるほどの変わりようです。
申し遅れましたが不肖、高井がご案内させて頂きます。

第六回(1998年)萩原朔太郎詩集受賞作。
財部鳥子(たからべ とりこ) 新潟県出身 1932年11月11日 - 2020年5月14日
2014~2016年と日本現代詩人会会長。本名 金山雅子(かなやま まさこ)
1933年新潟県生まれ。生後すぐ父の任地中国(満州)へ。
その後黒龍江省の佳木斯市(じゃむす)で幼少期を送りました。
1945年、日本の敗戦により土地と家財を失い、敵となった人々を恐れながら、一年の
難民生活で父と妹を亡くし、1946年日本に引揚げました。このときの体験がその後の
多くの作品に影を落としています。
1965年詩集『わたしが子どもだったころ』(30頁の私家版)を発行、その中の一篇
「いつも見る死―避難民として死んだ小さい妹に―」が第2回円卓賞を受賞、詩人としての遅い出発を果たしました。
2020年5月14日、すい臓がんのため死去、享年87歳でした。

水底を覗くと しずかに
一輪の紅い蓮が浮いてくるところ
舟べりから手を伸ばして
我が知らぬ想い出を折り取った


「詩は滅びない。なぜならすでに空無だから」 
生き残り、生き抜いた者だからこそかくも激しく詩を幻視する。
今ここを突き抜けて「無」へと豊かに広がる言葉。
財部鳥子の詩は、傷を負った全ての生きものが、帰還をめざす領土だと思う。
                                                            (小池昌代)
満洲体験にはじまる長い歳月を生き、人の生死を見据えて、
年輪を経るごとにみずみずしくも馥郁たる世界をあらわした詩人。


「烏有の人」財部鳥子詩集から。
時間と言葉への虚の思い巡らしがどこからどこへ行くのか。
架空を現実へ引き戻そうとする意志と、現実を架空へ押し上げようとする意志が
せめぎあう。最近5年間に創られた詩を中心に収録。-----「MARC」データベースより

この文の前後がどうなっているのか、気になりますね。

さて、広瀬川は比刀根橋北側のたもと、こんな碑が建てられています。
以前ご報告の通り、この道を10余年に亘り通い続けた私としては、何故今までこの碑に気がつかなかったのかと、 少なからず驚いたのですが、疑問はすぐに解けました。
次の写真の碑文にある日付は昭和51年。私が中学を卒業したのが昭和45年ですから、
その当時は未だ建てられていなかったというわけです。
多くの千羽鶴、地元の人たちがいかにこの碑を大切にしているかが判ります。
下手くそな写真で申し訳ありません。

ところで、問題は石碑左側の陽の当たっている箇所に刻まれた漢字二文字。「〇〇に」
一体なんて書いてあるのだろうかと気になって調べたのですが、この経緯については
とてもこのエリアでは語り尽くせません。
前橋市役所の皆さま、前橋市社会福祉協議会の皆さま、前橋市戦災被爆者遺族会の皆さま、その他関係者の皆さま、お騒がせしました。
並びにご協力有難うございました。この場を借りて御礼申し上げます。

ちなみに「永遠に」と刻まれています。
同じ草書体でも特殊な字体とのことで、専門家でなければ読み解けません。
昭和20年8月5日前橋大空襲の犠牲となり死歿(しぼつ)せる
一般民間市民の群霊535名に及ぶ当時最も爆撃激しく犠牲者多き比刀根橋防空壕跡地に
記念碑を建立不生不滅の実想の中永遠の平和を祈念し遺族有志永年の悲願を実成す
昭和51年4月5日
前橋市戦災被爆者遺族会



前橋の縁者として、この歴史は大切にみなと共有し、
責任を持って次の世代に繋いでいきたいものです。

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