新春、東京・中野区に向いました。
JR中野駅の北口を出て左に折れると区役所の脇にイヌの銅像があります。
身構えて吠えるイヌ、伏せた姿勢のイヌ、母イヌと共に眠る2頭の子イヌなど計7頭の銅像で、1968年に設置されました。
説明板には「かこい」とあります。江戸時代のイヌの保護施設のことで、「お囲い御犬屋敷」などと呼ばれていました。第5代将軍の徳川綱吉が出した「生類憐れみの令」により、江戸市中から集められた犬たちが、この周辺に設置された「かこい」の中で暮らしていました。
イヌたちは「お犬様」と呼ばれて、白米に魚など高級な餌が与えられていたようです。
イヌたちの収容は1695年に始まり、オスとメスに分けて管理。施設は徐々に拡大して、最大時には約29万坪(東京ドーム約20個分の広さ)に10万頭以上が収容されたといいます。
施設内にはイヌ小屋のほか子イヌ養育場、餌場などの建物があり、イヌのための医者や役人が常駐していたそうです。


「生類憐れみの令」は1本にまとまった法律ではなく、1685年ごろから断続的に出された動物保護の一連の法令のことです。
徳川綱吉の当初の意図は「動物をいたわる心を社会に広めたい」というものだったようです。
綱吉が戌年だったこともあり、特にイヌに関する法令は細かく定められました。
将軍の意図に迎合する役人たちの思惑もあり、法令の内容はエスカレート。保護の対象はイヌや牛、馬だけでなく、鳥、魚、昆虫などにまでに広がり、釣り船や、蛇使いなどの見世物芸も禁止になったそうです。
1691年には、江戸城敷地内の森に生息していたカラスが将軍にフンをするという事件がありました。カラスは「生類憐れみの令」のおかげで「死罪」にならず、八丈島へ「流罪」になったとのことです。

1709年、綱吉が亡くなると「生類憐れみの令」は即刻廃止、「かこい」も撤去されました。
幕府も、この法令が重荷だったようです。
「かこい」があったこの地域は長い間「囲町」と呼ばれていましたが、1966年に「中野4丁目」と改称しました。
「お犬様」の銅像からさらに西へ歩くと、「囲町ひろば」という公園があります。ここに「かこい」があったという土地の記憶を残す、ベンチが2つある小さな公園です。
そこに腰掛けて、10万頭のイヌが東京ドーム20個分の広大な土地にいる情景を思い浮かべようとしました。しかしスケールが大きすぎて、私の想像力が及ぶ範囲をはるかに超えていました。